保護領からの「幻の王者」

1945年、多くの犠牲者と東部領土の喪失という代償を払って一応の平和を取り戻したドイツ各地では、米英仏ソの4カ国による分割統治が開始。同年11月25日に1.FCザールブリュッケンとして再出発したクラブも、「オーバーリーガ」の名称で再開された南西地域リーグに参加し、実際は1946年のみで行われた第1回シーズンでは1.FCカイザースラウテルンを抑えて優勝しました。

しかしこの地域を占領していたのは、再び傷だらけのフランス。中央政府が消滅したドイツに対し、さらに強硬になります。1947年12月15日、フランスはザールラントの統治を民政に移行した上、軍政が続くドイツの他地域から分離して自国の保護領「サール」としました。ドイツ重工業の再建を阻止するには、自国の経済圏にサール炭田を取り込む必要がありました。この時、1.FCザールブリュッケンは南西地域リーグに参加中。1947/48年は1.FCカイザースラウテルンが優勝し、1.FCザールブリュッケンは3位でしたが、この決定によってドイツのリーグにはもう参加できなくなりました。

新シーズン、フランス側が用意したのは「ディヴィジョン・ドゥへの特例参加」。この1948/49年の結果が、1試合を除いて分かっています。参考に、ホームゲームでは2013/14年シーズンでの対戦相手の現略称と、その所属リーグの「部」(リーグ1なら1部、リーグ2なら2部……)を入れました(ベジエはその後解散)。出典は、この部分はRSSSFではなく、ファンサイトの「100 Jahre FCS」( http://www.100-jahre-fcs.de/)。

<表1>1948/49年のフランスリーグ・ディヴィジョン・ドゥでの1.FCザールブリュッケンの試合結果

1.FCザールブリュッケンはフランス全土のクラブを相手に38試合を消化し、27勝7分4敗。これはクラブ公式サイトでの記述とも一致します。ジロンダン・ボルドー戦での敗北を除くと115得点79失点。当時の勝ち点換算だと61ポイントでした。クラブ公式サイトでは、エースのヘルベルト・ビンケルトが41ゴールで得点王に並んだともあります。しかし、優勝は21勝11分4敗のランスで、53ポイントで並んだボルドーと共に翌シーズンの1部昇格を決めました。1.FCザールブリュッケンの試合はあくまで「特例」で、公式記録からは除外されたのです。現在でもフランスの連盟や各クラブの記録には、これらの試合結果は残されず、19チームでの順位表が掲載されています。もし通常のリーグ戦なら得られた優勝と昇格を、1.FCザールブリュッケンは阻まれてしまいました。

さらに続く1949/50年シーズン、1.FCザールブリュッケンはこの特例参加すら拒否されてしまいます。この部分では情報が錯綜していて、クラブ公式では「このプロジェクトを推進したジュール・リメにより、一度は我々の正式参加がフランスフットボール連盟(FFF)で承認されたが、各クラブの反対で撤回され、その責任を取ってリメはFFF会長を辞任した」とありますが、リメの退任時期には別の情報もあるので、今後の確認が必要です。ただ、FIFA初代会長も兼任していたリメですら抑えられないほど、当時のフランスでは反独感情が強く残っていた事は良く分かります。

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