最初で最後の「代表クラブ」

東西冷戦の激化で「徹底的な弱体化」という当初方針は緩和されたものの、フランスのドイツに対する強い警戒心は変わっていませんでした。保護領のサールでも、サッカー交流は解禁しましたが、政治面ではフランス統治を支持する政党のみを認めていました。また、ザールラントのヨハネス・ホフマン首相は保守系ドイツ人ですが、戦時中はブラジルまで亡命していた反ナチス運動の活動家でもあり、ドイツへの再統合に強く反対していました。

1954年10月21日、西ドイツを加えた地域防衛組織の西欧同盟が発足した際、フランスはその支援を使ってのサール独立を提案しました。ドイツとの分断を確定すれば、フランス・フランを使っているサールは必然的に自国の影響下に置かれるという判断です。もし実現すれば、スイスとリヒテンシュタインのように、外交・経済政策の多くを委ねる国家になったでしょう。

1年後の最初の日曜日、1955年10月23日、この提案に基づく住民投票が実施されましたが、66万人のうち96.7%が投票した結果は、独立賛成が20万、反対が42万。68%のザールラント住民は、20年前と同様、アデナウアーが呼びかけた新たな祖国・西ドイツへの復帰を選択しました。圧倒的な結果の前にホフマン首相は退陣、フランスも敗北を認めざるを得なくなります。


フランス保護領サールの旗。
スカンディナビア十字にフランス国旗のトリコロールを取り込んだデザイン。


ドイツ連邦共和国ザールラント州の旗。
連邦の三色旗に中世・近世の領主の紋章を組み合わせている。

もちろん、1.FCザールブリュッケンはその結果についてコメントする事はありません。住民投票当日も1万2千人を集めたオーバーリーガのホームゲームで、VfBから改名したボルシア・ノインキルヒェンとの同地域対決に2-1で勝利していました。しかし、ザールラントとして西ドイツへ統合すれば、欧州チャンピオンズカップでもその代表として出場する事はできません。初戦の前から、この第1回大会がサール代表としては最初で最後の出場になる事が決まったのです。

そして11月1日、サン・シーロでの結果は……もうお気付きですね。

ACミラン 3-4 1.FCザールブリュッケン
得点 ミ:フリニャーニ(15)、スキアフィーノ(33)、デルモンテ(37)、ザ:クリーガー(5)、フィリッピ(43)、シーラ(67)、マルティン(69)

立ち上がりにペーター・クリーガーの得点で先制した後、ウルグアイを世界一へ導いた後にイタリア国籍となったフアン・アルベルト・スキアフィーノなどに3失点を許した1.FCザールブリュッケンでしたが、後半に再逆転しました。決勝点はビンケルトと並んでサール代表での最多得点、6ゴールを記録している地元出身のヘルベルト・マルティンでした。ジャンルイジの祖父の従兄弟のロレンツォ・ブッフォンやチェーザレの父のパオロ・マルディーニなどがいたACミランは、欧州最高峰の戦いを黒星で始めました。

11月28日、1万5千人が詰めかけたルードウィヒスパルク・シュタディオンでの2ndレグの結果も、お分かりでしょう。

1.FCザールブリュッケン 1-4 ACミラン
得点 ザ:フィリッピ(32)、ミ:ヴァッリ(8、77)、パフ(75=O.G.)、ベラルド(86)

アウェーゴール制がまだ無いこの時、ACミランはとにかく勝てば最低でも1試合のプレーオフ。その貴重な先制点を早い時間に控えFWのヴァレンティノ・ヴァッリが決めます。しかし32分、サール代表で最多の18試合出場、現役生活もこのクラブのみで15シーズンを戦ったDF、ヴァルデマール・フィリッピが決め、合計スコアで再びリード。ミラン打倒まであと15分まで迫りましたが、これも守備の柱だったテオドール・パフが痛恨のOGを犯します。その直後、ヴァッリが通算スコアで逆転するこの日2点目。決して華々しい活躍をしなかった彼にとって、この試合はミランでのベストゲームになりました。最後には突き放され、1.FCザールブリュッケンの挑戦は終わりました。

つまり、これが最初の「Sportiva」記事、「サン・シーロで勝ったのに逃げ切れなかったクラブ」としてメルガリ氏が触れた例でした。もちろん、実感のない大半の日本人は気付かなくても仕方がないでしょう。しかし、この記録を見るだけでも、当時の興奮や願望が伝わってくるようです。

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