◎栄光・低迷・復活のアズーリ
しかし、第二次大戦前の3大会を合計すると、一番試合数が多かったのはイタリアでした。当時はムッソリーニのファシスト体制が支配するイタリア王国、しかし第二次大戦に負けた後もイタリアは共和国として存続し、イタリアサッカー連盟(FIGC)もDFBのような消滅や大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)のようなFIFA除名処分も受けなかったので、アズーリは切れ目無くつながっています。
戦前の試合数が一番多かった理由は、もちろんドゥーチェ様の指令であらゆる手段が執られた1934年自国開催と、続く1938年フランス大会での2連覇です。この2大会は完全トーナメント制ですが、延長戦でも同点の場合、かつてのFA杯と同様に後日再試合をやっていました。イタリアも1934年準々決勝のスペイン戦が再試合になったので(初戦は1-1、再試合は1-0)、16チーム参加なのに5試合も戦っています。
ところが、東西両ドイツと違って無事参加できた1950年のブラジル大会ではスウェーデンに敗れ1次リーグ敗退、1954年は開催国スイスとの順位決定戦を1-4で落として8カ国での決勝トーナメント進出を逃します。さらに1958年1月には欧州予選最終戦で北アイルランドに負け、本大会出場そのものを逃した結果、「ドイツ+西ドイツ」にも抜かれました。1966年大会では北朝鮮にアジア勢初勝利を献上し、空港で腐ったトマトを投げつけられたという話が有名ですが、当時の成績を考えれば、「強豪」よりむしろ「古豪」の方が実態に近かったでしょう。
アズーリの復活は1970年メキシコ大会での準優勝から。次の西ドイツ大会では1次リーグ敗退でしたが、その後は2次リーグ、あるいは決勝トーナメント進出を外していませんでした。南アフリカ大会でのグループリーグ敗退は40年ぶりの不振で、イタリアはW杯試合数で第3位をキープしています。
しかし、通算で83試合目になる次のウルグアイ戦は、再びアズーリが低迷期に引き込まれるかの境目になるかもしれません。なお、ウルグアイにとってもこれが9カ国目となる50試合目の節目です。
◎アルゼンチンの英雄達とその空白
ドイツにはイタリアの他にもイングランド(61試合)やフランス(56試合)というライバルがいて、スペインも58試合を戦っていますが、ブラジルにとっての最大のライバルは何と言ってもアルゼンチン。今度のイラン戦が72試合目で、全体でも4位です。
実は、アルゼンチンは第1回大会で5試合を戦い、単独での最多記録でした。13カ国を4つのグループリーグに分けた際、アルゼンチンは唯一4カ国いるグループに割り振られ、その後に準決勝と決勝も戦ったためです。
しかし、1934年は1回戦でスウェーデンに敗れると、次の1938年は南米予選参加を辞退。1950年と1954年にも予選に参加しませんでした。1938年は欧州での連続開催への抗議、1950年は国家でもサッカー連盟でも対立するホスト国・ブラジルとの関係悪化が理由ともされますが、国民の多くがイタリアからの移民になるアルゼンチンの場合、欧州に有力選手を派遣するとそのまま帰化・強奪されるのが、1934年に改めて分かったためとも。
実際、アズーリの決勝戦出場メンバーのうち3人がアルゼンチン出身で、しかもルイス・モンティは4年前にも決勝に登場し、「アルビセレステ」の一員としてウルグアイと戦った選手でした。
Goal.com 「W杯ヒストリー(2):1934年、欧州での初開催」
http://www.goal.com/jp/news/125/ワールドカップ/2010/04/19/1885308/w杯ヒストリー21934年欧州での初開催
1958年スウェーデン大会、アルゼンチンは初めて南米予選に参加し、24年ぶりの本大会出場を決めました。しかし、南米選手権では活躍していたアルゼンチンも久々のW杯では勝手が違い、西ドイツなどに敗れてグループリーグ敗退。1970年大会では史上唯一の予選敗退でした(ペルーが出場)。このメキシコ大会終了時点で、ペレの活躍で優勝したブラジルの38試合に対し、アルゼンチンは半分以下の16試合しかありませんでした。
アルゼンチンが巻き返すのは、1974年西ドイツ大会での2次リーグ進出からです。1978年、今度はホルヘ・ビデラ軍事政権が手段を選ばなかった自国開催で念願の初優勝を飾ると、1982年にはこの時の最終選考で外されたディエゴ・マラドーナがいよいよ登場します。このスペイン大会では2次リーグでイタリアとブラジルに連敗しましたが、その後は2大会連続で決勝進出し、計14試合を戦いました。
しかし、マラドーナが薬物使用で大会から追放された1994年はベスト16止まり、その後も2002年日韓大会のグループリーグ敗退を挟んで3大会で準々決勝敗退となり、アルゼンチンの反撃は止まりました。直接対決でブラジルを止めた1990年大会の後は18まで詰めた試合数の差は2006年で過去最大の27に広がり、2010年でも変わりませんでした。
この時は「リオネル・メッシの大会」になるのではとも言われましたが、アシストは決めたもののノーゴールになった事で、国民からの批判を浴びました。しかし今回は初戦のボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦で早速ゴールし、大きな期待が集まっています。得点王を取るためには試合数を増やすのが鉄則、この点でもアルゼンチンがどこまで勝ち進むのかが注目されます。
そして、もし大会の形式が今のままで続くと仮定した場合、ここから4大会連続でベスト4に残れば、ウルグアイとの共同開催構想もある2030年大会のグループリーグ第2戦がアルゼンチンの100試合目になります。