「アジアの核弾頭」原博実の挑戦

一方、1981年に三菱重工へ入社した原は1982年にチームの優勝に貢献し、1985年と1987/88年シーズン(※ともに22試合制)の2度は自身最高の10得点を決めました。

もっと重要だったのは日本代表で、1988年までに75試合で37ゴールを記録しています。これは現在まで、日本代表の得点数で歴代4位です(1位は釜本邦茂の75点、以下三浦知良55点、岡崎慎司47点、JFA発表による)。

当時は日本サッカーがなかなか世界に届かない「冬の時代」でしたが、強烈なヘディングシュートを見せる原は「アジアの核弾頭」という称号を得ました。

代表から遠のいた後、クラブの2部降格と1年での1部復帰(2部でのリーグ得点王が新人の福田正博)、さらに三菱重工から三菱自動車へのチーム移管などを経験した原は、Jリーグの発足を前に三菱が移行した浦和のコーチ就任を要請され、33歳で現役を退きました。

そして1998年、満を持して浦和の監督となり、2ndステージでは3位に入りましたが、翌99年は苦戦。1stステージは最終節の名古屋戦で1-8の大敗を喫すると、監督を解任されました。この時は13位でしたが、結局浦和は年間15位に落ちてJ2降格となります。

その後、テレビ解説者を経て原が監督となったのは、2002年のFC東京でした。

攻撃サッカーを掲げた原によりFC東京は前進し、同年の2ndステージから2005年の1stステージまで6位以内、2004年にはクラブ初タイトルとなるナビスコ杯優勝も達成しました。しかしリーグ制覇はできず、1年挟んで5シーズンの在任期間は2007年で終わりました。

そんな原がJFAに入ったのは、田嶋から15年遅い2009年、技術委員会の強化担当委員長としての就任でした。この時は犬飼会長ですが(ただし犬飼の浦和社長就任は原の解任後)、小倉会長になった後も同職に残り、南アフリカW杯終了後には欧州ルートを使っての代表監督交渉に当たりました。

この時、アルベルト・ザッケローニ新監督の就労ビザが間に合わなかった2010年9月のキリンチャレンジカップでは2試合限定で代表の代行監督を務め、「原ジャパン」として連勝を収めました。

JFA公式内 代表タイムライン
「キリンチャレンジカップ2010」2010年9月4日 日本1-0パラグアイ(日産)

http://samuraiblue.jp/timeline/20100904/

「キリンチャレンジカップ2010」2010年9月7日 日本2-1グアテマラ(長居)
http://samuraiblue.jp/timeline/20100907/

そして、原は2013年12月にJFA専務理事となりました。これは、副会長への専任となった田嶋の後任として前年6月に専務理事となっていた田中道博に体協(日本体育協会)女性職員へのセクハラ問題報道が浮上し(確かに、この問題が浮上した後の2013年6月の月例理事会後にあった田嶋副会長による会見は、W杯出場決定の祝賀ムードが消し飛んだ、とても陰鬱な内容でした)、結局は体調不良を理由に2013年10月に田中が辞任した後、原の選手時代に三菱重工の監督だった大仁会長から抜擢されたものでした。

緊急交代での登場でしたが、2014年のブラジルW杯後にハビエル・アギーレを代表の新監督に決めた後は技術委員長を霜田正浩に譲って専務理事職に専念し、海外出張も多く多忙な田嶋に代わって日本サッカーの実務を取り仕切ってきました。その流れで、恐らく数年前は本人も想定しなかったであろう、JFAトップへの挑戦になりました。

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