――なるほど、その日が6月1日だったのですね!そもそも当時、ミズノがサッカーシューズを作ろうと思った理由は何だったのですか?

私(安井氏)の母校は古くからミズノとの繋がりがあり諸先輩で副社長になられた方がおり、その縁で1980年の3月にミズノへ入社することとなりました。

しかし、ミズノは当時サッカーではまったく認められていないブランドで、ミズノと言えば誰もが野球、ゴルフというイメージを持たれていたと思います。私もミズノのスパイクなど一度も使用したことはありませんでした。

だから、当初私はミズノへの就職をためらっていたのですが、担任の先生から「お前がミズノに行ってそれを変えたら面白いぞ」と言われ、若かった自分はそれをうのみにして試験を受けることにしました(笑)。

高校の卒業論文でミズノのサッカーシューズについての比較改善レポートを作成。その論文が功を奏したのか、シューズの企画部門へ配属されることとなりました。

高校卒の若造がすぐに何かをやれるような環境では勿論、無かったのですが、時間をかけてシューズ、モノ作りのいろはを勉強させていただいた後、「モレリア」の開発は1983年頃から始めていました。

そして、せっかく新しいモノを作るのであれば、世界最高の舞台でも使ってもらえるような品質のスパイクを作ろうという目標を持って取り組んでいました。

できれば、ブラジル代表の選手に使ってもらえるような仕様・品質のモノを作りたいと。そういった夢を持って開発をはじめました。当時は一人の社員の戯言のようなものでしたね。

しかし、人の情熱(思い)は、時として壮大な力を発揮し、人を繋ぎ合わせてくれます。

実は私がミズノに入社したころ、地球の反対側のブラジルで日本人としてプロのサッカー選手を夢見る一人の侍がいました。

彼の名は、水島武蔵です(キャプテン翼のモデルと言われています)。

水島選手は10歳にして単身ブラジルへ渡り、サンパウロでプロへの階段を上り始めていました。そのころ、ある会社を通じてミズノと彼との間で繋がりができていました。まだ、ミズノが“Mライン”のシューズを販売していた時代です。

彼がブラジルへ渡り、初めて日本に戻るということを聞きつけて、彼の東京の家を訪問。ブラジルの選手の使うスパイクや、どのような機能を求めているのか、約半日をかけて彼とシューズについて語り合える時間をいただきました。

そこから、今の「モレリア」のコンセプトが生まれたのです。