新天地メキシコでは挫折を味わう

――アメリカで半年過ごした後はメキシコへ渡ったと聞いています。どのような経緯でメキシコへ行かれたのでしょうか。

ゴトビさんが率いるチームはカリフォルニアにあったクラブで、多国籍軍なんですよね。

グリーンカードを持っていたらアメリカ人扱いなので、チームはもうブラジル人、アルゼンチン人、エルサルバドル人、イギリス人、アイルランド人、セネガル人もいた。思いつくだけでも、もっといましたね。多国籍軍なので、収拾がつかない時期もあった。

ちょうど、もっと高いレベルでサッカーをしたいと思っていたときにメキシコ人のチームメイトが自分の母国メキシコに戻って挑戦するという話があった。彼が僕に「お前だったらメキシコでも通用する。一緒に行かないか?」と言われてメキシコへ行ったんです。

――メキシコではどのような経験を積まれたのでしょうか。

メキシコでは結果的にプレーしていないんです。ネカクサというメキシコではビッククラブなんですけど、2軍のテストに合格したんです。

2軍のテストに合格したんですけど、その育成枠というのが23歳以下の縛りがあるチームでした。結局僕の誕生日月の関係で、合格後に所属できないことが分かった。

(次は)メキシコ2部リーグのチームの練習に3回行ったんですよね。2週間くらい練習参加して、手応えがあった。向こうから「契約してくれ」という話になったけど、サインする前日の練習中に右足首を骨折したんですよ。

それで結局契約破棄になって…。中米は厳しいですね。サインするはずだったけど、前日に骨折して駄目になった。

――それはもう絶望的な状況ですね…。

それから自分の足首が治ったときには、メキシコのサッカークラブと契約できない時期に入っていた。

それでフットサルをやったんですよ。メキシコのフットサルリーグに声をかけたり、練習参加したりして。(当時の)メキシコのフットサルリーグはメキシコ全土でやるものではなくて、メキシコシティのような都市だけで行われているセミプロみたいなフットサルリーグがいっぱいあった。

僕は日銭を稼ぐために3クラブを掛け持ちして、毎週水曜に行われるリーグでプレーしました。1試合出たら、1ゴール挙げたらいくらとか。それで飯を食っていました。

メキシコで苦しい時期を過ごした後にグアテマラ2部デポルティーボ・アマティトラン、同2部デポルティーボ・ミクトランを経てエルサルバドル2部のCDサンルイスでプレーした。エルサルバドル時代を中心に振り返ったインタビュー記事は関連記事リンクから読むことができる。

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次回は間瀬監督のクロアチアでのキャリアと通訳業に飛び込んだ経緯を掲載する。

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