慶応と欧州サッカーのサポーターの共通点

慶応の応援力というのは、「ロンドンにいるおばあちゃんがサッカーに詳しくなくても地元のトッテナムやアーセナルを応援する」ようなものと言えばいいのだろうか。

普段高校野球の熱心なファンでなくても、新聞でなんとなく高校野球の結果は追うし、こうして晴れ舞台に「後輩」が登場するとなったら見に行くのは当たり前である。

それは年齢も性別もどこまでかかわりが濃いかは置いておき、全員に「血」が流れているからだ。

慶応では入塾すると小学生だろうが中学生だろうが、系列校は大学の早慶戦に見学に行き「若き血」を肩を組み歌い応援を学ぶ。何かあれば全校をあげて応援するという意識が気が付くと当たり前になっているのである。

ただ、これはプロ野球の千葉ロッテ・マリーンズの応援がすごいこと、サッカーでいえばトルコ人がガラタサライの異様な雰囲気を止められないのと一緒である。もっと言えば、セリエAのサポーターが問題視されようが発煙筒を炊いていたのと同じで、彼らにとってその応援は「日常」であり「儀式的」でもあり、それ以外の人たちにとっての「非日常」である。

私自身も周りに「応援に行きたい」というと、「愛校精神が高くないと自分から言うのに甲子園には行きたいの?え?え?」というような反応で見られている。それが一般的な考えではないことは重々承知している。

だからこそ、応援風景が「学生に対してプロのような応援をするのはいかがなものか」「宗教的である」と感じて批判的な意見があるのも理解する。

筆者の学生時代を振り返ると、応援していた試合では大差になったり、大雨で下着までぐちょぐちょでも応援を強制されるシーンがあって、さすがに解せなかった記憶もある。一般との乖離があることもまた認めなくてはならない。