神戸への帰還

昨年3月31日に2024年シーズン神戸加入内定が発表された。大学2年終盤での早期内定。この時点で大学サッカー屈指の司令塔と複数関係者が絶賛するほどの存在だっただけに、神戸への帰還は既定路線といわれていた。内定の瞬間を山内が振り返った。

――大学2年の終わりに神戸から2024年シーズン加入内定のオファーを受けました。経緯を教えてください。

ちょっと語弊があるかもしれないですけど、筑波に来たときは神戸を数あるチームの1つと思っていました。でも練習参加に行って、試合も見ていたので、(練習参加に)行けば行くほど「(神戸)行きたい」と思うようになりました。

選手の質や環境と、Jリーグから見ての神戸の価値はすごく高いです。自分も本当に行きたいと思いました。ちょっと早かったですけど、あの時期に決まりました。

――内定はいつの練習参加を終えて決まりましたか。

2年の秋です。2年のチームが総理大臣杯に出ているときに、僕と筑波の田村蒼生選手の二人で、U-20代表のパリ・オリンピックを目指す初めの活動に呼ばれて、活動が終わってから神戸の練習参加に行ったタイミングでそういう話になったと思います。

――高校時代の悔しさもあったと思いますが、内定が決まった瞬間はどのような心境でしたか。

大体内定が決まる時期は早くても大学3年だと思っていた中で内定を受けたので、びっくりという感情が強かった。(当時は)なかなかうれしさはなかったですけど、その場にいた方が強化部長の栗原(圭介)さんと相模原のスポーツダイレクターの平野(孝)さんがいました。平野さんは(高校当時の)自分が「トップチームに上がれないよ」と言われたときのアカデミー部長で、その(結果を告げられた)部屋にいた方でした。

栗原さんも兄が中1のときの伊丹の監督でした。そういう方々に(内定を)伝えられたので、びっくりしました。この時期で言われて、筑波へ行って良かったと思いました。

――内定を受けてから意識の部分で変化はありましたか。

(高校時代に)トップに上がれなかったときのほうが変わったと思います。筑波に行く直前は自分がこれから先どうなるかも分からなかったです。

この4年間で自分の価値を見出すためにどうしようかという中でずっとやってきて、それが評価されてなので、自分がやってきたことをこのまま続けます。

あと行くチームも決まったからそこで力になるために、いまからやれることをやる準備ですね。