1993年5月に10チームで開幕したJリーグは、3部60チームにまで裾野を広げ、日本サッカーの発展に貢献してきた。

今年で開幕31年目を迎えたリーグでは、これまでもさまざまな選手が華々しい活躍を見せてきたが、リーグ全体に視野を広げると、平均引退年齢は25~26歳という厳しい競争も垣間見える。

瀧川二高、鹿屋体育大を経て、2004年にFC東京に入団した中村亮も、怪我の影響で若くしてピッチを去ることを決めた選手の一人だ。

さまざまなキャリアチェンジを経て、スポーツ選手のアメリカ留学をサポートする株式会社WithYouの代表として奮闘する中村氏の現在に迫った。今回はその前編。

引退後は中学教諭に赴任も「サッカーに代わる何かをいつも探していた」

――大きな期待を背負ってFC東京に入団された中村さんは、怪我の影響によりわずか2年で引退されました。引退後は中学校の教諭としても勤務されていたそうですね。

そうなんです。実は両親が教師をしていた影響もあって、「引退した後は教師にでもなろうかな……?」と漠然と考えていて、学生時代には教職免許も取得していたんです。 でも、度重なる怪我のせいで、予想よりも早く引退することになってしまって。

「来年からどうやって生活していこう?」と考えているときに、Jリーグのセカンドキャリアサポートセンターという部署に勤めていた先輩から、「横浜市内の中学校に空きがあるから、教師になってみないか?」とお声がけしていただいて。幸運なことに、引退の翌年に赴任が決定したんです。

――セカンドキャリアをスタートさせた時のご感想を聞かせてください。

個人的なことで言うと、選手としては怪我の影響でほとんどプレイ出来ず、期待に応えたくても応えられない時間が長かったので、精神的にかなり追い詰められていました。教師と言う仕事の楽しさややりがいを感じつつも、「ようやく苦しい時間から解放された」という安心感が強かったような気がします。

――教師という職業のどんな点にやりがいを感じましたか?

中学生くらいだと、反抗期の真っ只中で口を聞いてくれない生徒がいる一方で、やけに馴れ馴れしい生徒がいたりして、みんなが個性的でした。純粋な眼差しを持つ彼らと過ごすなかで、僕も元気をもらうことが多かったように思います。

留学生だった頃の中村さん

ーー充実した教員生活を送っているようにも思われましたが、なぜ別のキャリアを歩まれることになったのでしょう?

教師としての生活に慣れてきた頃に、だんだん「俺は一生このまま教師を続けるんだろうか?」と思うようになってきて、Jリーガーを目指した時のようなチャレンジする人生への興味がだんだん湧き上がってきたんです。割と長い間悩みましたけど、最終的には「チャレンジした方が、後になって後悔しないだろう」と思い、別の道を選ぶことを決めました。

――その頃からすでに「学生を応援するためのビジネスをしよう」と思われていたのでしょうか?

いいえ。当時の僕はまだ「自分自身がどうやって生きていくのか」を考えるだけで精一杯でしたから、「他人の役に立ちたい」とか「世の中のためになることをしたい」といったことを思い描く余裕はありませんでした。

その頃の僕は、かつて情熱を燃やしてきたサッカーの代わりになるものを必死で探していて。スポーツトレーナーやモデル、歌手などにも挑戦させてもらったんですけど、何をやってもサッカーと比較してしまうところがあって、煮え切らない思いを感じながら過ごしていたんです。

でも、ちょうど28歳の時に「自分の手が届く範囲にあるものでは、20年くらい続けてきたサッカーほどの満足感は得られないのでは?」ということに気が付かされて、そこからは5〜10年先を見据えながら自分のやりたいものを探すことを意識するようになりました。

――意識が変化したきっかけはあったのでしょうか?

そうですね。色々と思い悩んでいる原因を突き詰めていくと、まだ元サッカー選手だったことを引きずっていて、「元Jリーガーの華麗な転身像」に縛られている自分に気付かされたんです。

「華麗な転身」の選択肢の中にある人生だけではなく、「自分は結局何がしたいのか?」を追求していかないと幸せになれないと思うようになって、そこからだんだん長期的なビジョンが見えてきたように思います。