与那城ジョージ
出身国:ブラジル
日本代表:2試合0得点(1985)
当時日本リーグ2部だった読売クラブを強豪へ押し上げ、ミスター・ヨミウリと呼ばれた伝説的なプレーヤー。
沖縄県からブラジルに移民した両親のもと5人兄弟の末っ子として生まれ、1972年に日本へ。ブラジル仕込みのテクニックは群を抜いていた。
元日本代表FW水沼貴史は「日本にドリブルのやり方を教えてくれた人」と話しており、子供の頃、将来の読売クラブ入りを夢見ていた元日本代表FW福田正博は「その当時の中心選手は圧倒的にジョージ与那城さん」と熱っぽく語っている。
外国人枠を空けたいクラブの意向で1985年1月に日本へ帰化。すでに34歳だった彼は日本代表入りを想定していなかったが、当時の森孝慈監督に選出され同年に行われた1986年ワールドカップ・アジア最終予選に2試合出場した。
帰化前は『ジョージ与那城』、帰化後は『与那城ジョージ』となっている。
ラモス瑠偉
出身国:ブラジル
日本代表:32試合1得点(1989-1995)
帰化プレーヤーの象徴的な存在といえばラモス瑠偉だろう。
家族を養うためにプロサッカー選手を志したブラジル時代。しかし何度も受けたセレクションに落ち続け、小さなクラブで燻っていた。
ちなみに当時はスペインで活躍した名DFルイス・ペレイラに憧れており、ポジションはセンターバックだった。自身によれば名門クラブのどのDFより自分のほうがうまいと思っていたという。
その後、休暇でブラジルに帰国していた与那城ジョージにスカウトされ読売クラブへ。DFの層が厚かったことからFWとして起用され、後年には足元の技術を生かして伝説的な「10番」となった。
1989年、32歳のときに帰化し日本代表入り。年齢的に最後のチャンスだった1994年アメリカ大会でのワールドカップ出場を目指したが、ドーハの悲劇に遭遇することに。
北澤豪はYouTube『おじさんだけど、遊んでもいいですか?』に出演した際、「ラモスさんに(W杯ヘ)行ってもらいたかった」と涙ながらに語っている。
なお、石川康(ボリビア)は日本代表に選ばれているがAマッチへの出場はなし。宮澤ミシェル(フランス)は代表候補のみ。ジョージ小林(ブラジル)は日本代表として出場しているが、ブラジル国籍のままだった。