――グループステージの3試合とスペイン戦はまったく違う試合になりました。スペインは身体的にそこまで日本と変わらないと思うのですが、それくらい何か、いろいろなところで“ちょっとした差”があったという感じですか?
そうですね。日本と似た感じの、フィジカル能力がすごく高い感じもなければ身体的に突出したものもないですけど、サッカー…とにかくサッカーという感じのそういったところを見ることができた、自分の肌で感じることができたのはすごく良かったです。
同い年の川﨑颯太と久保建英
――五輪の話はまた後でうかがわせてください。まず山田選手のキャリア的なところで、山田選手は滋賀県の甲賀市、昔だと甲賀郡水口町の出身です。そこから小学5年生で京都サンガF.C.に入られた理由はどういったところにあったんです?
小学校4年のときにセレクションをやっているというのを親が持ってきて、試しで受けてみるかみたいな形で行ったら受かったという感じです。選んだ理由とかではなくて、いまの自分を試そうみたいな感じで受けに行きました。
――滋賀の子供たちにとって当時、一番身近なJクラブというと京都?
滋賀県内にそのとき、いまはもう名前が変わりましたけど、MIO(※読みは「ミーオ」、MIOびわこ草津のこと。現レイラック滋賀FC)があってそこの小学校低学年くらいまでのスクールみたいなのには行っていました。
――なるほど。京都のアカデミーは高校から寮だったと思いますが、それまでは通うのが大変だったのでは?
学年の中で一番遠かったです。学校が終わってすぐ自転車で家まで帰り、学校へ行く前に準備しておいた荷物を持ってすぐ駅まで送ってもらって、その電車に乗れなかったらもう練習に参加できないという。もうギリギリの戦いをしていました(笑)。
滋賀県の瀬田駅という駅までクラブのバスが迎えに来てくれていました。そこまで行くのに40分ちょっとくらい、瀬田駅からのバスには40~50分くらい乗っていました。電車だけで行くと2時間以上かかるのでバスの迎えはだいぶありがたかったですね。
――そして、U-18へ昇格した時に入ってきたのがパリ五輪に一緒に出場した川﨑颯太選手でした。最初の印象は?
なんか違うクラブ(ヴァンフォーレ甲府U-15)から来る選手がいると聞いて、「そんなやついるんだ」くらいの感じでしたね、最初は。
――一緒にプレーしていく中でどんな存在になっていったという感じでした?
自分は、周りと比べたり周りの選手と照らし合わせて自分が成長していくというタイプではなかったのでそこまで意識はしていなかったです。
ただ、チームメイトとして頼りになるというか、ボランチでしたけどゴールも結構取っていたので、点も取れる、ボールも奪える。ボランチですごいなと思いながら一緒にやっていました。
――そんな川﨑選手と今年、一緒にパリ五輪へ出ることが決まったときの気持ちはどうでした?
自分は最初はバックアップメンバーという形でしたけど、入った時点ではもういろいろ変わって、帯同する可能性もあるなと思っていました。
一緒に行くという実感はあまりなかったですね。向こうで一緒に試合に出たりしながら「一緒にやっているな」という感覚ではありましたけど、決まったときとかはその感覚はあまりなかったです。
――山田選手のように2001年生まれのプレーヤーにとって、久保建英選手は同い年です。10歳でバルセロナ行きが決まるなどそういう情報は知っていたのかなと思うのですが、どんな存在として見ていましたか?
小さい頃からテレビにちょくちょく出たりしていたので見てはいましたけど、意識したり「彼に負けたくない」とかそういう思いは一切なかったです。
先ほども言いましたけど、自分は他人と比べてのし上がっていくより、自分をどれだけ伸ばせるかというのでこれまで成長してきました。久保建英選手という存在があってもなくても、いままで自分はこうやって成長できてきたので、特に意識はしていなかったです。
いま、日本代表とかでずっと試合に出て、世界でも活躍していますが、それに並ぶ、それ以上の左足をいま自分は持っていると思っています。そこに負けずというか、競うつもりはないですけど、同じレベル…その上のレベルまでいきたいと自分では思っています。