ソニー仙台FC入団の経緯
仙台大卒業後は現在所属するソニー仙台FCに入団した吉野。学生のころから50年以上の歴史を誇るアマチュアサッカー屈指の名門チームに憧れを抱いていたという。
大学時代は練習試合、天皇杯宮城県予選で同クラブに何度も苦杯を舐めさせられた。それでも大学4年次には天皇杯宮城県予選で初めて憧れのチームを打ち破り、大学4年の11月にオファーをもらった。
―― ソニー仙台FCにはどのような経緯で加入されましたか。
「仙台大にいたとき、ソニー仙台FCと練習試合を何度もやっていました。自分が仙台大1年次のときからソニー仙台FCに勝ったことがなくて、『最強のソニー仙台FC』という感じでしたね。4年目の天皇杯宮城県予選で初めて勝ったんですよ。そこで自分を見てもらえたので、『自分から行きたいです』と話をして加入できました。
――いつごろオファーを受けましたか。
「自分から『入りたい』と言ったのは大学4年の11月くらいです」
――加入内定は遅い時期だったんですね。
「そうですね。夏くらいから『行きたい、行きたい』と言っていました。(強化責任の)見田(雅之)さんと話したのは11月ぐらいでした」
――ソニー仙台FCに内定をもらった際は率直にどのような感情を抱きましたか。
「率直に『あのソニー仙台FCに入団できることがすごくうれしい』という感情でした」
――憧れの存在だったんですか。
「憧れでしたね。憧れでしたし、『ソニー仙台FCの一員でサッカーをしたい』とすごく強く思っていました」
――チームへのリスペクトが素晴らしいですね。よく練習生でJリーグクラブ入団を目指しているけど、JFLのクラブは滑り止めという大学生選手もいるじゃないですか。そういう選手はソニー仙台FCに入団できない印象がありますね。
「それはそうだと思います。いままで5年間ソニー仙台FCに在籍させていただいた中で、練習参加に来る大学生を見てきて、『J3に行けなかったら行きたいです』、『Jに引っかからなかったらソニー仙台FCに入りたいです』というマインドで来る選手も多かったです。仰ったとおり、そういう選手は練習参加ではあまり力を発揮できず、『気持ちが大事だ』と思いました」
――アマチュアの名門チームとしてトップを走ってきたチームです。加入して意識したことを教えてください。
「最初チームに入ったとき『絶対試合に出てやるぞ』とずっと思っていました。自分が入った年は7人の新人が加入しましたが、多くの選手が入れ替わった中で『大丈夫か』という不安の声も聞こえてきました。
そういうマイナスな声をプラスにして、『この新人が入ったから勝てた』と絶対に思わせてやると入団した同期7人で話していました。個人的にも最初から試合に出場して、ベストイレブンに入って新人賞を取ってという意気込みでやっていました」
――JFLはフィジカルの強度が高い印象があります。
「JFLのサッカーは独特で、つないでくるチームはあまりないです。『フィジカルメインがJFL』という感じだったので、フィジカル面は最初苦労しました。大学のときとはスピード感が違いますし、全員強かったですね。セットプレーでは『一個、一個集中力を欠けないな』という気持ちで試合に臨んでいました」
競技と職務の並行に苦労も
ソニー仙台FCの選手は多賀城市の拠点に勤務しながら選手として競技に打ち込んでおり、午前から午後2時までソニー製品の製造などに携わっている選手も多くいる。
吉野もソニー製品の製造に携わっており、競技と職務を並行する大変さを聞いた。
――話せる範囲で、職務の内容を教えてください。
「ソニー仙台FCの選手はそれぞれ違う業務に取り組んでいます。私はLTOテープメディアの解析業務に携わっています」
――映像記録用の大容量磁気テープですか。
「そうですね。テレビ局が使うような大きい容量の磁気テープです」
――職務で覚えることがたくさんあると思います。仕事と競技を並行することは難しかったですか。
「最初は本当に難しかったです。私が入社した年は新型コロナウイルスの影響で最初の数カ月は自宅待機でした。サッカーもJFLの開催試合が通常の半分しかできませんでした。
そして出社できるようになってからは、1年間をぎゅっと短縮させて学ばなければいけなかったので本当に大変でした。午後2時まで仕事をして、そこから練習は大学生のときと比べたら過密スケジュールでした。仕事では覚えることがあって、サッカーでは試合に出ることにフォーカスしないといけない。時間の使い方は苦労しましたね」
――それは大変でしたね…。
「最初は覚えることも多かったですが、サッカーと一緒でトライアンドエラーを繰り返して学ぶ姿勢が大事です。学ぶ姿勢とやり切る覚悟みたいなものはサッカーでも一緒だと思います。そこの強みを仕事に生かせたと思います」