Qoly読者の皆さん、こんにちは。駒場野です。
改めまして、新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
元日の夜に「続編コラム・その1」をアップさせていただいた「新国立競技場」の問題はスポーツ界以外での関心も高いですし(だから不可解な主張も生まれやすいようです)、2019年のスタジアム完成や2020年の五輪まで息の長い議論が続くはずです。なので、私もあと6年、Qolyで書かせてもらえるように頑張ります(笑)。
……ただ、このテーマはものすごく疲れるんです。既に私のメンタルはボロボロです(苦笑)。
そこでちょっと息抜きしたくなって、新年に相応しいネタを考えました。
今年はいよいよ男子のW杯イヤー、4年に一度のビッグイベントです。同時に今年は午(うま)年です。つまり十二支のうち、午年には必ずW杯があります。そして、第20回大会となる今度のブラジル大会で、午年のW杯は7度目になります。
そこで、今回はこの12年周期で出てくる「午年W杯」での相性を調べ、優勝チームも予測してみました。
◎ドイツの歴史的好成績
では、まずは一番結果の良い国、勝利と幸運の女神に愛された国から紹介します。 過去6回の大会で唯一2度優勝しているのは、西ドイツでした。
<表1> 過去の「午年」W杯でのドイツ(西ドイツ)の成績
注:第5-14回は西ドイツの成績。
1966年の決勝は「ハーストの疑惑ゴール」で負けたので、ドイツ人は「本当は優勝3回!」というかもしれません。一方、2002年はオリバー・カーンの大活躍で勝ち上がったものの、横浜でロナウドの2発に屈した完敗でした。
それでも、1954年は第二次大戦後の初参加、1990年は東西統一直前という、西ドイツとしての最初と最後を飾った、歴史的にも重要な優勝でした。当時無敵だった「マジック・マジャール」のハンガリー代表を破って、国家分断後の暗い世相に希望を与えた1954年の初優勝は、「ベルンの奇蹟」として映画になっています。
欧州勢がほとんど参加しなかった1930年を別にすると、決勝に進めなかったのは1978年のアルゼンチン大会だけという、恐ろしいほどの好成績です。
なお、東ドイツ代表はどの大会でも予選敗退か不参加ですが、そもそも1974年の西ドイツ大会しか本大会に出ていないので、このジンクスにはほぼ無関係ですね。
◎南米開催で相乗効果のアルゼンチン
午年W杯、ドイツの次に成績が良いのはアルゼンチンでした。
3回の決勝進出、うち1回は優勝しています。
<表2> 過去の「午年」W杯でのアルゼンチンの成績
ドイツが2次リーグで消えた1978年の自国開催大会で、アルゼンチンは当時の軍事政権がかけた過剰な期待に応えて初優勝しました。この大会と、第1回のウルグアイ大会の準優勝は、南米開催の地の利を最大限に生かしたと言って良いでしょう。
ただ、南米開催は今回が5度目ですが、この他の2回ではアルゼンチンは不振です。1950年のブラジル大会は不参加、1962年のチリ大会は1次リーグ敗退でした。こう見ると、やはり「午年」との相性が良い気がしてきます。
そして1990年は、地元のイタリア人観衆からディエゴ・マラドーナに向けられた強烈な敵意を跳ね返して決勝まで進みました。この時のドイツの直接対決を含め、午年の大会ではドイツとアルゼンチンのどちらかが必ず決勝に残っています。
ただし、2002年はグループリーグ敗退。日本で戦った3試合を1勝1分1敗で終えました。馬にありがちなこの辺のムラっ気も、アルゼンチンらしいのかもしれません。
ちなみに、アルゼンチンは世界有数の牧畜国家で、国連食糧農業機関(FAO)の統計データでは2005年の350万頭となっています(農水省の調べでは、日本は2004年度で9万6600頭)。競馬も盛んで、日本でも11月に東京競馬場で開かれる「アルゼンチン共和国杯」(G2)が有名です。これは2013年で50周年、第51回の開催という伝統あるレースです。
◎「競馬の母国」の貫禄
一方、ドイツの永遠のライバルで、アルゼンチンとはフォ-クランドで本物の戦争をやったイングランドの成績はこの通りです。
<表3> 過去の「午年」W杯でのイングランドの成績
自国開催だった1966年で唯一の優勝を果たしたのは上記の通り。その後、1990年にも4位になっています。実はイングランドが準決勝に進んだのは全大会でもこの2回だけです。2002年にも大フィーバーとなったデイヴィッド・ベッカムがPKを決めてアルゼンチンに勝ち、結局は準々決勝まで進みました。
アルゼンチン共和国杯がG2なら、ダービーは文句なしの最高峰レース。イギリスは世界中の帝国領地に競馬場を建て続けました。「馬の年」ならば譲れないでしょう。
ちなみに日本語では「蹴球」とも書くサッカーは中国語になると「足球」ですが、「馬球」はポロの事です。ポロの起源はペルシャらしいですが、近代化したのはイギリスでした。でも、ポロのマークの「ラルフ・ローレン」はアメリカのブランドで、車の「ポロ」はドイツのフォルクスワーゲンですが……。ラルフ・ローレンはゴルフやラグビーのウェアは出していますが、サッカーはないようですね。
◎「午年」でも走る「虎の国」
「ドイツやアルゼンチンやイングランド?どこも西洋の国じゃないか」というご指摘は当然あるでしょう。私が読者ならそう思います(苦笑)。
では東洋、特に十二支が生まれた中国の影響が強い東アジア文化圏ではどうでしょうか。明確な特徴が出てきたのは韓国です。
<表4> 過去の「午年」W杯での韓国の成績
2002年の地元開催は今でも「誤審」が話題になりますが、準決勝進出はやはり大成功でしょう。
そして他の「午年」大会でも健闘していました。基礎力が違うので、ドイツやアルゼンチンと比較すると見劣りするのは仕方ありませんが、1954年は朝鮮戦争休戦直後の大混乱の中、初参加の予選で日本を下した出場でした。本大会では2試合とも大敗でしたが、出場しただけでもベスト16相当です。1990年も2大会連続で出場枠2のアジア予選を首位通過しています(ただし本大会は3連敗)。
そして、1966年は韓国が予選参加を辞退しましたが、それを埋める形で本大会に出場した北朝鮮がアジア勢としての初勝利を挙げ、準々決勝のポルトガル戦でも3ゴールを決めて伝説のチームとなりました。
朝鮮半島で昔から有名な動物はトラです。1988年ソウル五輪のマスコットも虎の子のホドリ(男)とホスニ(女)でした。日本統治時代に作られ、同大会のサッカー会場になった東大門運動場(スタジアム)のそばにできた地下鉄の同名駅には、今でも壁にホドリが書かれているようです。ただ、このスタジアムは2007年に閉鎖され、現在はスタジアム記念館を含めた東大門歴史文化公園が整備されています(駅名も改称済み)。公園敷地の隣にはイギリス在住の女性建築家、ザハ・ハディドが設計した「東大門デザインプラザ」が建築中だとか……うっ、急に頭痛が。
ソウル五輪のマスコット「ホドリ」
(※ソウル五輪組織委員会解散後の権利所有者は不明)
"Dongdaemun Design Plaza"(英語版)
http://ddp.seoul.go.kr/eng/
株式会社ムラヤマ Creator's Eye 2010年3月18日付記事:
ソウル「東大門デザインプラザ&パーク(DDP)計画」
http://www.murayama.co.jp/creators/2010/03/post_197.html
(※各種展示会、イベント、商業・文化・観光施設装飾の企画設計を行う日本企業、建物と公園全体の全体イメージあり)
日経ケンプラッツ2013年12月10日付:
内藤廣が新国立騒動にもの申す「ザハに最高の仕事を」(引用):
「(新国立競技場への批判を受けて)ザハにしてみれば、座敷に呼ばれて出かけていったら袋叩きにあった、という気持ちかもしれません。そうなれば、それこそ国税一千数百億を使った壮大な無駄遣いです。ザハはソウルで巨大な美術館を完成させつつあります。東京の建物はそこそこでいい、ソウルの建物こそが自分の作品だ、ということになったらこれ以上残念なことはありません。」
ただ、韓国は「寅年」W杯の成績は良くありません。<表3>の大会を1回前にずらすと寅年ですが、第13回・1986年のメキシコ大会では32年ぶりに本大会に出たものの1分2敗でグループリーグ敗退、その次の第16回・1998年のフランス大会も全く同じ成績でした。第19回・2010年の南アフリカ大会ではグループリーグを突破しましたが、1勝1分1敗で進んだ決勝トーナメント1回戦でウルグアイに負けなので、2002年のような強烈な印象は残っていません。南アフリカ大会では北朝鮮も44年ぶりに本大会に進みましたが、3戦全敗で終わっています。
◎アズーリはポルシェの呪いに?
相性が良い国があるのなら、当然悪い国もあります。その代表例は、イタリア。
<表5> 過去の「午年」W杯でのイタリアの成績
1990年に傷だらけのマラドーナが引っ張るアルゼンチンに自国開催での優勝を阻まれたのも、2002年には逆に究極のアウェーに呑み込まれてアン・ジョンファンのゴールデンゴールを許したのも、さらに1966年に北朝鮮に歴史的勝利を献上して帰国した時にローマの空港で腐ったトマトの雨を浴びたのも、みんなアズーリの黒歴史です。銅メダル1個に4位1回は、普通の国なら十分な成績なのですが……。
イタリアと「馬」なら、フェラーリの「跳ね馬」でしょうか。でも、あちらは赤いですね。フェラーリ社の公式サイトでは、エンブレムの由来は第一次大戦で活躍して戦死したイタリア空軍のエースパイロット、フランチェスコ・バラッツァが乗った戦闘機にあり、1923年に彼の父親から譲り受けたとしています。これは撃墜したドイツ空軍機のパイロットが付けていた出身地・シュトゥットガルト市の馬の紋章が元だったという説があります。一方、市の紋章をそのまま使ったのが地元企業のポルシェ社。数多くのレースやスポーツカー市場でフェラーリとバトルを繰り広げてきたライバルです。
100年前の戦争では勝ったイタリアも、午年のカルチョではドイツにやられっぱなしです。今さらユニフォームを赤くするわけもないでしょうが、今回のブラジル大会ではこの失地を挽回できるでしょうか。
◎凱旋できないル・ブルー
ところが、もっと悪い国がありました。イタリアと同じ青いチーム、フランスです。
<表6> 過去の「午年」W杯でのフランスの成績
2002年はソウルでの開幕戦に敗れ、そのまま未勝利で終わったのは覚えていましたが、その前の午年、「将軍」ミシェル・プラティニが去った後の1990年にはイタリアに行ってすらいませんでした。その前も、ちょうど好成績の時期の谷間にはまっています。2014年には「午年史上初」の決勝トーナメント進出がかかります。
もちろんフランスにも「馬の文化」はあります。何と言ってもオルフェーブルがあと数十mまで迫った凱旋門賞、それに今でも馬具を作っているエルメス。ただ、レ・ブルーのこの不出来を見ると、フランス人はやっぱり「フットボールは別物」と思っているようですね。
◎「それでもフェリポンなら、きっと何とかしてくれる」
もう一つ、どうしても触れなければならないのは、今回の開催国であるブラジルです。
もう当たり前のように「優勝が義務」、当然予想でも大本命、でしょうが……。
<表7> 過去の「午年」W杯でのブラジルの成績
6大会全部に出場はさすがですが、20世紀中の5大会では3位1回のみという、ちょっと信じられないほどの不振でした。1930年はW杯初試合でユーゴに負けたのが響き、1954年は準々決勝でマジック・マジャールに粉砕され、1966年は前後3大会で優勝だったのにペレとガリンシャが徹底マークされて沈みました。1978年は2次リーグを2勝1分で終えたのに、最終節を後から戦ってペルーに6-0で圧勝したアルゼンチンに得失点差で抜かれ、5大会ぶりの優勝を目指した1990年はそのアルゼンチンを決勝トーナメント1回戦で圧倒的に押し込みながらもマラドーナ→カニーヒアのスルーパス1本で仕留められました。
ただし、2002年に「午年マイスター」のドイツを決勝戦での直接対決で下した優勝監督、ことルイス・フェリペ・スコラーリが、この2014年に向けてセレソンに戻ってきました。今までのハンディを跳ね返してくれた「フェリポン」の手腕にもう一度、ブラジル国民は期待しているでしょう。
セレソンファンにとってもう一つ気になるのは、開催国の結果。
各大会の開催国と上位4位までの一覧もまとめました。
<表8> 過去の「午年」W杯での上位4ヶ国の一覧表
6大会のうち、開催国優勝は3回。準々決勝で負けた1954年のスイスを除き、ベスト4を逃したチームはありません。この辺はさすがに「地元有利」です。ただ、最近2回は開催国が準決勝で負けているのは、ブラジルにとっては嫌なデータでしょう。また、ウルグアイは1930年・第1回大会での自国開催優勝に続いて1954年で4位ですが、その後は振るわず。
この他、上で挙げなかった強豪国もあまり目立たないのが分かります。1978年のオランダ準優勝ぐらいですね。ベスト4以上が5度あるフランスはこの表にありませんし、4度のスウェーデンに至っては欧州予選で消えました。新勢力の台頭も難しそうです。
◎そして、2014年の優勝は?!
最後に、このデータだけで(笑)、新たな「午年の王者」を予想してみました。
ドイツ・アルゼンチン・ブラジル、この3つは強そうです。ドイツはG組で3位経験のあるポルトガルやアメリカと一緒ですが、実績差は明らかですね。他ではB組でオランダがスペインを抑えて1位、E組ではスイス1位、フランスはまたもグループリーグで消えるか。H組では韓国が1位抜けできるかもしれません。D組は、イングランドが1位、ウルグアイ2位にしました。C組は……どこも決め手がないのですが(苦笑)、より新しい大会でベスト16という点で、2002年の日本1位、1990年のコロンビアを2位。
決勝トーナメントでも3強は揺るがなさそうです。ドイツは1回戦でH組2位のロシア、準々決勝でスイス(1回戦でポロの祖国・イランに勝利)を問題にせず。アルゼンチンはフランスの自滅で浮上したエクアドルと、1回戦でアメリカを下した韓国を破って準決勝へ。ブラジルは1回戦でスペイン、準々決勝では日本を下したウルグアイを倒してベスト4に入ると見ました。残る一つはイングランド。1回戦はコロンビア、次はオランダを下したカメルーンと1990年以来の準々決勝対戦になります。
そうなると、準決勝はブラジル-ドイツ、イングランド-アルゼンチン。12年前の日本ではブラジルとイングランドが勝ちましたが、あれはあくまで例外の気がします。なので、決勝戦は1990年の再来。そうなればドイツがアルゼンチンに勝つでしょう。失意のブラジルですが3位決定戦は勝つでしょう。従って……
「優勝ドイツ、準優勝アルゼンチン、3位ブラジル、4位イングランド」
さあ、「午年の法則」は当たるのか。今から半年先が待ち遠しいですね(笑)。
◎天皇杯クイズの答え
さて、気付いたら……というか新年だから当然ですが、天皇杯が無事に終わりました。
新国立競技場の件に深入りする前のコラムは「第93回天皇杯の現在・過去・未来」として天皇杯の記録をひもといていました。
そこで出したクイズは、この2つ。
問1コラムのタイトルに使った歌詞の曲、渡辺真知子の「迷い道」が流行していた1978年1月1日、第57回天皇杯の決勝で釜本邦茂のいたヤンマーを下したチームにいた選手で、今でも日本に住んでいるブラジル人は誰でしょう?
問2天皇杯本大会の歴代通算得点記録の中で、25得点で水沼貴史・柱谷幸一と並ぶ歴代2位、外国人選手でトップなのは誰でしょう?
どちらもツイッターでお答えを募集したので、当てられた方もいましたが、ここで改めて正解を。
……その前に、渡辺真知子さんが今でも現役で活動している事を紹介させていただきます。デビューから38年目ですが、昔と変わらずパワフルですね。
渡辺真知子オフィシャルサイト「Kamome's nest」
http://kamome-music.com/
渡辺さんは横須賀市出身、デビュー曲も『かもめが翔んだ日』なので、横須賀もホームタウンにしている横浜F・マリノスとかぶります。もっとも、サッカーファンとは聞かないな……と思ってオフィシャルサイトを開いたら、エンブレムはむしろY.S.C.C.に近いですね。
Y.S.C.C.公式サイト
http://www.yscc1986.net/
では、クイズの答えです。
問1の正解は、「アデマール・ペレイラ・マリーニョ」。フットサル界の恩人、マリーニョさんですね。18歳でクルゼイロとプロ契約をした後、21歳の時に札幌大学へ留学し、卒業後は純粋なアマチュアリーグだったJSLのフジタ工業、今の湘南ベルマーレの前身へ入団しました。そしてゲームメーカーとして、フジタにとっての初優勝となる第57回と、その2年後の第59回、2度の優勝に貢献しました。その後に入団した日産自動車でも2度(第63回・第65回)天皇杯を獲得しています。
調べれば出てくる問1に比べて、問2の方が難しかったかもしれません。
こちらは「マルセロ・バロン・ポランクジック」、バロン選手が正解でした。
<表9> バロンの天皇杯試合数・得点数
バロンが得点ランキングで2位まで食い込めたのは、もちろん第78回大会の10得点が理由です。日本サッカー協会が調べた限り、1大会でこれほど取った選手はいなかったようです。
当時の甲府はJFLだったので、1・2回戦で都道府県予選を勝ち上がった地域リーグや県リーグのチームを相手にゴールを稼ぐチャンスはありました。実際、バロンは1回戦の川副クラブ(佐賀、県1部)から2得点(6-0で勝利)、2回戦の道都大学(北海道、道大学)からは4得点(6-1で勝利)を挙げています。その2年前、天皇杯初試合で2ゴールを奪ったのも1回戦の川副クラブ戦でした。
この大会のポイントは3回戦でした。2部制移行前の最後のJリーグで年間9位だったC大阪を相手に4ゴールの大活躍でした。試合も森島寛晃の2ゴール(最終的にはハットトリック達成)で先行されたのを逆転し、6-4で勝利しています。この試合後、セレッソ側では翌シーズンの契約延長が内定していた松木安太郎監督の退任が発表されました。激怒した鬼武健二社長による事実上の解任です。
セレッソ大阪 クラブガイド「勝矢寿延が振り返る98年シーズン」
http://www.cerezo.co.jp/history/club_guide_thistory_1998.asp
バロンは2001年に移籍した清水エスパルスで天皇杯の全5試合に先発し、そのうち4試合でゴール。特に決勝では延長前半、98分にクロスボールを押し込むVゴールを決めて清水に初の天皇杯をもたらしました。天皇杯決勝でのVゴールは、この前年にフリーキックで鹿島の年間三冠を決めた小笠原満男とこのバロンだけです。そして、対戦相手はまたC大阪でした。C大阪は年間順位16位(最下位)でJ2降格が決まった後に奮起し、この決勝でも0-2の80分から森島のゴールとユン・ジョンファンのPKで追い付きましたが、最後に力尽きました。
2003年、会長になっていた鬼武氏の下で1年でのJ1復帰に成功したC大阪が補強したのは、清水との契約が切れたそのバロン。大久保嘉人との2トップを組み、天皇杯でも4回戦(ベスト16)ではG大阪戦と準々決勝の神戸戦で2点ずつ決めましたが、自分にとってもクラブにとっても2年ぶりの決勝では動きを封じられ、磐田に優勝を奪われました。
「2002World」アーカイブス:
2002年1月1日付「C大阪の猛攻及ばす。清水が3度目の決勝で、天皇杯初制覇!!」
http://2002world.fc2web.com/special/empe/empe81/empe81_020101.html
2004年1月1日付「激闘!天皇杯。激しい攻めあいは磐田が制す。」
http://2002world.fc2web.com/special/empe/empe83/empe83_040101.html
バロンはこの試合がC大阪での最終戦となり、この後は3年で5クラブに在籍する(2004年は7月にJ2の甲府→鹿島、2006年は6月に神戸→福岡)するという珍しい記録を残した後、2006年の福岡を最後に、通算で10シーズンいた日本から離れました。バロンの天皇杯最終試合は同年の第86回、4回戦の京都戦です。
まだ去年の積み残しがありますが(苦笑)、今回はこの辺で。
今年もこんな感じて、小ネタを挟んで、硬軟取り混ぜながらいろいろなネタをお届けしようと思いますので、改めまして、どうかよろしくお願いします。
2014年が皆さんにとって良い年でありますよう。
筆者名: 駒場野/中西 正紀
プロフィール: サッカーデータベースサイト「RSSSF」の日本人メンバー。Jリーグ発足時・パソコン通信時代からのサッカーファン。FIFA.comでは日本国内開催のW杯予選で試合速報を担当中。他に歴史・鉄道・政治などで執筆を続け、「ピッチの外側」にも視野を広げる。思う事は「資料室でもサッカーは楽しめる」。
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