銅メダルへの道
他の選手への取材が終わった記者も加わった人垣は徐々に増える中、この日の定番質問へ。
「国立での一番の思い出はね、やっぱり南ヴェトナム戦だね。」
1967年10月10日はメキシコ五輪予選の最終節でした。
ここまで日本は3勝1分、南ヴェトナムに勝てば得失点差で韓国を抑えて本大会出場が決定しますが、引き分け以下では夢が断たれます。アマチュア全盛時代の日本では五輪に出場できるかが絶対的な意味を持っていました。
当時、産経新聞の記者だった賀川浩さんはこう振り返ります。
なお、文中の「ベトナム」はヴェトナム共和国、つまり南ヴェトナムです。( )内は私が補足しました。
「後半開始早々のチャンス、釜本のシュートを防がれたが、5分に、ゴールキックがミスキックとなり、杉山に直接渡る。ハーフライン近く左側で取った彼は、独特の動物的なカンで、そのまま一気にゴールへ突っかけ、DFをかわし、飛び出してきたGKラム・ホン・チャウともつれて倒れた瞬間、ツマ先で突っつくようにして蹴ったボールがゴールに転がりこんだ。左肩脱臼の負傷を注射で押さえた杉山の殊勲のゴール。ベトナムのトラン・ミン・マン監督は「バックスのただ一つのミスを得点された」と語った。
この後にも日本は勢いに乗れず、ベトナムの反撃が鋭く見えてスタンドのサポーターもテレビの前のファンもヒヤリとする場面もあったが、長い後半を終わって1-0。メキシコへの切符をついに手にした。」
出典:賀川サッカーライブラリー
「1967年メキシコ・オリンピック予選『日本を救った杉山のシュート』」
http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=282
「勝った後、選手とスタジアムを一周した時にお客さんがどんどん入ってきてね。今じゃできないけど、あの時のお客さんが後押ししてくれたから、メキシコで銅メダルが取れたんです。」
この日のイベントが全部終わった後にピッチが開放され、スタンドを埋めた観客の多くが芝生の上を歩きました。この時、岡野さんは47年前の光景を思い出したかもしれません。
1968年は、岡野さんにとってもう一つ大きな出来事が。4月に始まった東京12チャンネル(現テレビ東京)の「三菱ダイヤモンドサッカー」で解説を務めます。金子勝彦アナウンサーと組んだこの番組は20年続き、全国のサッカーファンにとって貴重な情報源になりました。
以後の日本サッカーは、古河の社員として組織を動かし、JFAの実務を切り盛りする長沼専務理事と、JFA理事ながら自営業という比較的自由な立場で広報・対外折衝に関わり、JOCの常任理事やIOC委員になっていく岡野さんの両輪で動きます。
ただし、岡野さんにとってサッカーや五輪の仕事はいわば副業です。日本でサッカーが紹介された年とされる1873年に創業した「岡埜栄泉」を守らないといけませんし、地域商店会の「上野のれん会」でも役員に推されました。
こんな修羅場になっても、岡野さんは誠実に仕事をしていきます。
「理事になった時、何とかこの国立のスタンドを埋めないといけないのでいろいろやりました。まず成功したのは高校サッカー、その次は天皇杯の決勝、そしてトヨタカップ。」
1980年代のラグビー人気全盛期には早明戦や日本選手権などで国立の満員札止めが続きましたが、サッカーではこの3つぐらいでした。日本代表の成績は伸び悩み、岡野さん自身も1970-71年の代表監督時にはアジア大会で4位、ミュンヘン五輪予選では韓国に敗れています。しかし、サッカー人気の素地は確実に作られていました。