異能のエリート
普段とはいろいろ違い、トラックを歩いてメインスタンド下のミックスゾーンに案内された報道陣の前を、まさに日本サッカーのレジェンド達が歩いていく中、小柄な岡野さんを見つけたベテランの新聞記者達が早速囲みます。テレビ用の記者会見パネルではラモスさんや中山さんが思い出を語っていましたが、ここで二つのメディアがはっきり分かれました。炎天下で「レジェンドブルー」監督を務めた疲れも見せず、いろいろな思いを率直に語り始めました。私は正確にメモを取っていた訳ではないので、順不同ですし、文責は私にあります。
「僕は最初のナイトゲームを見てるんですよ。1950年の早慶戦、まだ接収解除前だったので『ナイル・キニックスタジアム』って言ってね。その後、自分でも優勝したんです。」
岡野さんは1949年に東京大学に入学しています。サッカーでは野球のような「六大学」の枠組みはありませんが、当時は3校とも関東大学リーグの1部でした。この試合の結果は6-4で慶應の勝利でした。
一方、戦前の東京帝大時代は強かった東大も岡野さんの在学時は苦しみましたが、1953年1月には第1回全国大学サッカー大会、今の「インカレ」で優勝しました。岡野さんが早稲田相手にゴールを決めた決勝の会場が、前年の独立回復で米軍からの接収が解除された明治神宮外苑競技場でした。
「1961年にユーゴとやった時は、初めて解説させてもらいました。向こうが強化試合で韓国遠征をしたので、ついでに寄ってもらったんです。」
岡野さんは1957年に大学を卒業しました。長くかかったのは理学部に進むコースの理科二類から文学部心理学科に移ったせいもあるでしょうか。当時は日本サッカーの中心が徐々に大学から実業団に移り、有力選手は三菱重工・古河電工・日立製作所の「丸ノ内御三家」や広島の東洋工業(現マツダ)に進んでいましたが、岡野さんは上野駅前にある家業の和菓子店「岡埜栄泉」を継ぎ、選手からは退きました。
しかし、その指導力を買われ、この年には監督としてAFCユース選手権に参加、翌年からはフル代表(当時は「全日本」でしょうね)のコーチになります。当時は長沼健監督とデットマール・クラマーコーチによる指導法の改革が進んでいて、通訳も兼ねた岡野さんの能力は重宝されました。
「岡埜栄泉」の看板商品、あんこがギッシリ詰まった豆大福は、白黒のサッカーボールにも似ている? 1個220円。
(http://www.okanoeisen.com/index.html)