ドリーム・オブ・フィールド

岡野さんの評論と思い出は、国立競技場へも向きます。

「その意味で、このスタジアムはいろいろ使いづらくてね。いろいろと苦労しました。だから2002年のW杯では、「国立競技場」を作るのはやめてくれとお願いしました。ちゃんと座席には屋根が付いて、十分に食事も取れるような。」

1998年、岡田監督を擁護してフランスW杯を戦った後に長沼会長が退任。それまで渋っていた岡野さんも後任を引き受け、これまで以上に4年後の自国開催に関わる事になりました。

「今までの日本のスタジアムは『道場』だと思ってます。そうではなく、来て楽しい、エンターテイメントとして成立する『劇場』に変えないといけない。お陰様で、あの時には全国に10個の『劇場』ができました。特に横浜では、「スタジアムの劇場性」を理由に建築学会賞を受賞できました。」

W杯スタジアムの評価については、その赤字額の大きさへの批判、そもそも国体との関係を整理すべきという主張など、さまざまな議論が起こっています。ただ、アクセス以外ではほとんどの部分で、観客からは国立よりも高く評価されているのは確かです。

一般社団法人日本建築学会
1999年日本建築学会賞 業績部門
「横浜国際総合競技場の建設事業推進と次世代スタジアムの設計監理に関する業績」
高秀 秀信(横浜市長)
中園 正樹(松田平田代表取締役社長)
真塚 達夫(東畑建築事務所代表取締役)
http://www.aij.or.jp/jpn/archives/prize99.htm

しかし、その後でこうも続けました。

「でも、この芝生だけはもったいない。これだけは何とかならなかったのかと思いますね。」

ファイナルセレモニーでは芝生の養生に感謝し、長年これを担当してきたグラウンドキーパーチームを代表して、元管理者の鈴木憲芙さんに感謝状が手渡されました。この時のプレゼンターが岡野さんの後任となった、川淵三郎元会長でした。

「今のようにきれいな芝になった後、渡辺正さんが国立に来たんですよ。」

渡辺氏は八幡製鉄(現在の新日鐵住金)で活躍した、現在のスーパーサブの草分けです。1980年に代表監督になりましたが、半年後にクモ膜下出血で倒れて辞任しました。その後は会社業務に復帰し、母校の立教大学で指導もしましたが、1995年に59歳で亡くなりました。

「その時、渡辺さんは脳出血の影響で身体が動かず、もう言葉も出せなくなっていたんです。それでも国立の中に入った時、ピッチに正座して、両手をついてお礼をしていました。」

岡野さんの率直なお言葉は他にも続きました。これは別の機会に使わせて頂こうと思います。