ところが、2年目の雰囲気は一転。ガブリエル・エインセ、ファブリス・フィオレーズ、フレデリック・デウーなどの中心選手を失い、序盤は7試合勝利なしという最悪のスタートに。

(2004年にマンチェスター・ユナイテッドに移籍したエインセ)

圧力を受けるハリルホジッチはメディアとの関係が悪化した上、11月には2ヶ月のベンチ入り禁止処分が下されるなど混乱が続き、2005年2月に解任された。

なお、マルセイユ時代の中田浩二がオウンゴールを喫したことで有名なフランスダービーは4月の開催で、この際には後任のローラン・フルニエがチームを率いていた。

そして、この頃から彼の厳格さに対してはマイナスの評価も受けるようになった。フランスでは「過剰な厳しさを持つ暴君」とのレッテルを貼られ、その手の話は日本にも頻繁に届いていた。それが影響したのか、この後西欧のサッカー界からは離れることになる。

それと同時に、パリ・サンジェルマンはこの後ローラン・フルニエ→ギー・ラコンブ→ポール・ル・グエン体制と変化しつつ、カタール資本が入るまで長い低迷期を過ごすことになったのだが……それはまた別の話である。

ハリルホジッチは2005年にトルコのトラブゾンスポルで好成績を上げ、その実績を持ってフランスに戻ろうと試みたものの、それが叶わず。最終的にはサウジアラビアのアル・イティハドと契約し、さらにそこでは環境に馴染めず結果を残せずに終わっている。

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