デヤン・ロヴレン
(ドイツでの7年間は?)
「父と母はもっと長い許可を求めていたが、それは拒否された。ドイツ当局は『戦争が終われば戻れる』と言っていた。だから、父と母は半年ごとに故郷に帰っていた。
これはかなり厳しいものだったよ。ドイツでは未来がなかった。そして、その日が来た。
『2ヶ月で荷物をまとめなさい。そして国に戻りなさい』と言われた。
僕にとっては難しいものだったよ。ドイツに多くの友人がいたからだ。自分の人生はあそこで始まったようなものだったから。
そこにはすべてがあった。幸せだった。小さなクラブでプレーしていたし、そのコーチは父親だった。本当に素晴らしかった。母親も言っていた。『ドイツは我々の二つ目の故郷だ』と。
ドイツは我々を受け入れてくれた。当時、どれくらいの国がボスニアからの難民を歓迎してくれたというのか」
(クロアチアに移ってからは?)
「母はウォルマートで働いた。月給は350ユーロだった。父は家の塗装工をやっていた。お金の点では難しい状況だったよ。母はよく言っていた。
『電気の他、全ての料金を払えない。何もない』と。一週間無一文で過ごしたこともある。
父が僕のスケート靴を取っていったことを覚えているよ。ある日母に尋ねたんだ。『靴はどこ?』と。僕は冬にスケートをするのが好きだったからね。
母は涙を流して答えた。『お父さんが売りに行った…今週はお金がなくて』と。
これは自分の人生でターニングポイントになったといえる。僕は答えた。『もうこれ以上聞きたくないよ』と。
父は350クーナ(現在のレートでは5600円ほど)でそれを売った。僕のスケートは売られた。両親にとっては本当に厳しい時代だった」
戦争に翻弄されたロヴレン、世界に渾身の訴え
Text by 石井彰(編集部)
カズに憧れて全身赤のスーツを買ったことで校内一の人気者になったが、中身が伴わず一発屋で終わったというエピソードを持つ島根県出身のエディター。その影響か赤いチームを好み、ヴァランシエンヌ、レイションエス、ノッティンガム・フォレストなどを応援している。
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