槇文彦の経歴と新スタジアムへの疑念

では、槇文彦がどのような人物なのかを、改めて説明します。そうは言っても、私自身もそこまで詳しくはないので、専門家の皆さんから見れば浅い知識になりますが……。

槇は1928年東京出身、戦時中は幼稚舎からの慶應ボーイですが、進学先は東京大学の建築学科を選び、日本を代表する建築家である丹下健三の研究室で学びました。1952年の卒業後はアメリカ留学を経て、1962年に名古屋大学豊田講堂の設計により34歳で日本建築学会作品賞を獲得しました。以後、海外を含めて多くの作品を設計し、京都国立近代美術館、幕張メッセ、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)、六本木ヒルズ(テレビ朝日本社)。朱鷺メッセなどの大規模建造物を次々と手がけています。その創作意欲は80代になっても衰えず、2010年にはアメリカ・マサチューセッツ工科大学のメディア研究所(MITメディアラボ)の新館、2012年には町田市役所や静岡市清水文化会館なども完成させ、2013年には日本芸術院賞の恩賜賞を建築家として3人目に受賞した、日本の建築界を50年にわたってリードする大御所です。国際的にも2011年にアメリカ建築家協会からゴールドメダルを受けていますが、これも槇の師匠の丹下、そして新国立競技場審査委員長の安藤に続く3人目です。

丹下は1964年五輪の水泳会場となった国立代々木競技場の設計により大会後にIOCから表彰されましたが、槇もいくつかの運動施設を設計し、1990年には東京体育館を完成させました。JRの千駄ヶ谷駅から国立を目指すと、すぐ右側にある巨大な建物です。

そして、今回の槇はこの東京体育館の設計者として、そして新国立競技場のコンクールに参加しなかった立場としての問題提起です。

では、槇の指摘した問題提起を見ましょう。大きく分けて、建物の規模とその内容、そして維持管理についての厳しい批評が続いています。

槇がハディドの入選案についての第一印象としたのは、「その美醜、好悪を超えてスケールの巨大さ」でした。敷地面積11.0haは東京体育館の約2.5倍、観客席数ではちょうど10倍です。槇は直接的な評価を避けていますが、この他を圧倒する建造物が果たして必要なのかを、槇は繰り返し問いかけていきます。

まず、今回の新国立競技場コンペでは、槇自身が審査員となった1990年の東京国際フォーラムのように、周辺環境も考慮した模型提出は求められず、「4枚のパースのうち外観パースは鳥瞰図一葉だけが求められた」事を明かしています。

これはシンポジウムの名称にもなった「神宮外苑の歴史的文脈」と関わっています。この一帯は1926年(大正15年)に日本初の風致地区に指定され、都市景観と自然の調和を保全する事が求められています。明治神宮外苑においては聖徳記念絵画館とそこに向かう道の両側に並ぶイチョウ並木がその中心であった事を、槇は1931年頃の地図を引いて説明し、「スポーツ施設は脇役に過ぎない」とその意図を解説しました。そして「ケンプラッツ」の記事では、巨大な新国立競技場が絵画館の背後に控える画像を掲載して、この調和が永遠に失われる事を示しています。

都市を何百年の時を超える「歴史的遺産」とする思想からは、この場所で建てられる新国立競技場に求められた条件は全くそぐわないでしょう。これが「あまり敷地も広くないところでその10倍の施設をつくることは完全なミスマッチだと直感的に感じました」という、槇のコンペ不参加の理由です。

そして、「最優秀案も含めて海外からの応募作品の敷地に対する姿勢についてあまり批判するつもりはない」と断りながら、新国立競技場のコンペは「多くの関連部局から提出された、それぞれの最も理想的な機能と規模の積み上げ」によって最大高さ70m、屋内面積28万m2という巨大建築を求めた「官僚の支配する“お上”」に対し、その意を受けた「一部の有識者がそのプログラムを作成し、誘導してきた」と指摘します。

そして「毎年世界中のどこかで行われている国際コンペの一つ(one of them)にしか過ぎない」ハディド案に与えられた「見るものを元気づけるという賛辞」には、「もしも私が彼女の立場であったら苦笑した」とコメントします。

【次ページ】指摘へのカウンターとなる現・国立の貧弱さ