この2人の組織的な暴力行為を好むフーリガン、そしてテロリストに共通することは1つ。
彼らは「相手の内部に入り込み、そこから組織的に攻撃する」ことで数の差を無効化する点だ。
「相手は、誰が本当の敵かすらもわからなくなってしまうのだ」という表現が印象的だった。グローバル化という坩堝の中で、「組織に対する攻撃論」が変わりつつあるという仮説を立てることが出来るのかもしれない。ユニフォームを変更することで簡単に味方に成りすませるように、世界中が混じり合うことは内側からの攻撃を容易としている。
勿論、テロリズムもフーリガリズムも単純な定義によって成り立つものではない。彼らの行動原理は恐らく所属する組織によって全くもって違うものだろうし、チームを愛するからという理由で暴力行為に走る訳ではない。チームを愛した結果としてのフーリガリズム、は必ずしも悪と断じられるべきではないだろう。警察の度を過ぎた取り締まりに怒りが爆発するケースの様に、原因が別にある場合も少なくはない。
テロリズムが高い確率で死を伴うものである一方、フーリガリズムは不良の小競り合いの様なもので終わることも少なくない。ファングループ同士の小競り合いという例に限れば、関係の無い人間をテロリズムの様に巻き込んでいくことも無いだろう。宗教的な背景を持つことが多いテロリズムと、チームへの愛情と根源的に関わっているフーリガリズム。そういった違いは、攻撃の規模にも関わっているのかもしれない。
それでも、「大きな組織に対しての攻撃法」という意味では共通点を見つけられる、と筆者は考えている。そしてその2つは、時代背景の変化に結びついているのではないだろうか。