おわりに。

フットボールとテロリズムの接点が少なくない理由は、両者がグローバル化と深く結び付いているからだろう。

大規模なスポーツイベントはグローバル化の象徴の様なもので、内部に入り込む事が容易い。また、フットボールは世界中の注目を集めるスポーツだ。自分達の存在をアピールすることで最大の効果を狙うテロリストにとっては、格好の場所なのかもしれない。また、代表チームは「国家の代表」であり、時にフットボールクラブは「価値観や信条」を具現化するものとして見られる。ある価値観を憎むものにとっては、価値観を異とする人間を攻撃する感覚なのだろうか?

所変わって、スコットランドのグラスゴー。セルティックのパブでは人々が叫ぶ。「レンジャーズはクソったれの人種差別主義者だ」と。

しかし少なくとも筆者は、レンジャーズのスタジアムや隣接するバーで、人種差別主義者に出会った事はない。レンジャーズのサポーターは、「セルティックのクソ野郎共こそが差別主義者だ。俺たちはアジアの選手を奴らのように獲得はしなかったが、差別なんてしちゃいないのに」と毒付いていた。 話してみれば、実際はどちらのファンも非常に人当りの良い普通の青年達だ。

グローバル化の中で、実際は多くのチームが様々な国籍のファンを内包し、ポジティブな変化も起こり始めている。それでも、外から見る欧州のフットボールスタジアムは冷たい場所なのかもしれない。

グラスゴーで出会った品の良い婦人は「汚い言葉が飛び交い、男達が大声で不満をぶちまける。スタジアムには子どもを連れていけない」と悲しそうに嘆いた。グローバル化の中で一部のサポーターはより強烈な信条を持ち、原理主義的にチームの信条や歴史を推し進めようとすることもある。これはグローバル化が持つ負の弊害の一つだ。

テロリズムは、暴走したフーリガニズムに似ている。少数であるはずの過激派が暴力によって力を有し、全体のイメージを破壊していく。チームを愛する大半のファンは追いやられ、社会からの弾圧が襲い掛かる。

テロの後、イスラム教徒が多く差別的な事件に巻き込まれて被害を受けていることは、セルティックパブから出てきただけの青年がレンジャーズファンに襲われてしまった事件に似ている。欧州では移民排斥を叫ぶ極右政党が近年表舞台に現れているが、それもテロリズムやフーリガニズムに似た部分のある現象と言えそうだ。暴力による対立がイメージの悪化によって大きくなっていくことは、恐らく一般的なフーリガンですら望んでいない負の連鎖だ。

少数の暴走したフーリガン、そしてテロリスト組織の暴力をきっかけに大きな対立に向かっていくことは、多くの人を傷つけるだけの結果になりかねない。9・11でも、火種が様々な不満を爆発させ、戦争規模の結果を招く事を証明した。国家として仕方がない反応だとも理解しているのだが、それでも多くの罪のない人々が亡くなった。

テロリズム、というのが解決可能な現象なのか。その問いに対する適切な答えは、解らない。欧州的な考え方で言えば、テロリズムは「世界平和に対する野蛮で許されざる挑戦」でしかないが、グローバル悲観論者からすれば「欧州が力付くで押し付けてきた民主主義への反抗」だ。押さえ付けてきた不満が、悪い形で爆発したとも言い換えられる。