――となると、腰痛次第では…

引退が早まる可能性はあると思います。

ただ、だとしても「プロサッカー選手としての人生が終わるだけ」の話ですよ。

サッカー教室だったり、何かのイベントだったり、サッカーと切れることはないと思います。

例えば、最近でも有名なアーティストの方から「身体がいけるならエキシビジョンマッチとか出てよ」みたいに声掛けてもらったりしています(笑)

「いや、この腰では無理っす!」と丁重にお断りましたが(笑)

――サッカーを純粋に楽しめる良い環境ですね。

まぁ、端から見たら「あいつ楽しそうだな」って思われるでしょう。

でも、「それもありかなー」と思ってます。見えないところで苦しい思いをしていたとしても、「自分が周りを楽しくさせれたらそれでいいな」って。

今、自分は服とかアクセサリーのデザインもしていますけど、それも一緒なんですよね。

「自分が作ったもので人を幸せに出来たらいいな」という思いだけです。

――発想がもはやアーティスト寄りです(笑)

そうですかね?(笑)

でも、サッカーも一緒だと思うんです。

自分のプレーで観客が喜ぶ、勝てばチームも喜ぶ、ゴールを決めたら自分も喜ぶ。で、それが報酬にも繋がる(笑)

どんな形でも「僕に関わる人たちがハッピーになればいいよね」というスタンスです。

――ちなみに、サッカー選手として最もハッピーを感じられたのは?

やっぱり、ドイツ時代かなぁ。

高校を卒業して、Jリーグのクラブから断られた身の人間が、あのブンデスリーガに触れられたわけですからね。

これはお金で買えない、自分にとっての大きな財産です。

――その他にはありますか?

人間的にハッピーだった時で言うと、スペイン時代ですね。

高校卒業したばかりで右も左もわからないやつが、英語すら話せない中で突撃したわけですが、あそこまでハングリーになれたのは本当に貴重な経験でした。

最後の三ヶ月は給与も未払い。食べる物もない中で、結果は残さないといけないという状況でしたからね。

ちなみに、自分はその期間を「三ヶ月ペペロンチーノ時代」と命名しています(笑)

――「三ヶ月ぺペロンチーノ時代」ですか(笑)

マジでペペロンチーノしか食えなくて、ガリガリでしたよ(笑)

でも、それでもゴールを奪って結果を残しました。

あの時の自分のメンタルは、改めて振り返ってみても「本当に凄かった」と思います。

――日本では経験できないことでしょうね。

できないでしょう。

生々しい表現ですが、あの時は「こいつを殺してでも生き残る!」という精神状態。「日本に帰れない!この地で死ぬんだ!」という覚悟でした。

実際、高校卒業後にスペインへ渡った時も、親に土下座した上で飛び出してますからね。

「半年で結果を出せなかったら諦めるからチャンスをくれ!」って。

母親は「あんたがしたいようにしたらいいやん」という感じでしたが、父親は「お前にはサッカー選手は無理だ」と反対。学校の先生も「とりあえず、大学には行きなさい」って感じで。

――でも、そこを押し切ったんですね。

自分の考えが固まっていたので。

「高校卒業してからの4年は本当に重要でこの4年は簡単に埋まらない」という考えでした。「大学行ったら貴重な4年を失うな」と。

「いや、埋まる」という人はいるのかもしれないけど、僕は「絶対埋まらない」と。

だから、少しでも早くサッカーの世界に飛び込みたかったんです。

ただ…

――ただ…?

「タイミングが遅かったなー」と今は思っています。

それこそ、バルサにいた久保建英くんのような年齢で行きたかったです。

まぁ、バルサではないですけど、実は僕もレアルの練習に参加してたんですけどね(笑)

――えっ!?それ、聞いたことがないです(笑)

あれ?言ってませんでした?(笑)

では、今からそれを話しますか!

(次回へ続く…)


ここから話題は、「スペイン挑戦」、そして、「ドイツのハノーファーでの激闘時代」へ。

さらに、自らの肌で感じた「世界と日本の差」についても語って頂きました。

その模様は近日中にお届けします。乞うご期待。

取材・構成:カレン

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