5位 ヨハン・クライフ
アヤックスでトップチームデビューした2カ月後、クライフは元体育教師リヌス・ミケルスと出会う。そして、ふたりはトータルフットボールを考案した。
ウイングとオーバーラップするサイドバックが幅をとり、(MFがスペースをカバーするために下がって来るなら)DFは後ろからボールを持ち出すことを奨励される。
そして、センターフォワード(通常はクライフ)はミケルス監督のピッチ上の指揮者として自由に動き回ることができた。それがハマったのだ。
クライフは、ある選手の反乱によりバルセロナに追放されるまで、1971~1973年にヨーロピアンカップ3連覇を成し遂げるなど、20の主要な栄誉を手にした。
ひとつのクラブ(アヤックス)に革命を起こしただけでは飽き足らず、“救世主”は再び革命を起こす。バルセロナに14年ぶりのリーガ優勝をもたらしたのだ。そのスピード、ビジョン、ゴール嗅覚には誰も敵わなかった。
1974年ワールドカップでは、優勝できなかった史上最高のチームの一員だった。クライフは代表チームではピークに達しなかったかもしれないが、それも彼の魅力をさらに高めている。
1978年に31歳で引退すると、同年のワールドカップ出場を拒んだ。だが、カタルーニャの養豚場事業で財産のほとんどを失った彼は翌年に現役復帰。アメリカでプレーした後、古巣アヤックスに復帰すると、宿敵であるフェイエノールトでもプレーした。
偉大なバレエダンサーだったルドルフ・ヌレエフの長年の相棒でクライフの親友でもあったルディ・ファン・ダンツィヒはこんな話をしている。
「クライフは常にコントロールしているように見えた。物事を実現させた。彼にはとてもドラマチックなところがあった。ギリシャドラマのように生きるか死ぬかのような。普段のオランダリーグでプレーしていた時でさえもね」。