中央大を1年で退学し、びわこ成蹊スポーツ大では1つ年下の同級生と関西制覇を目指す
名古屋のアカデミーでは『相手の逆を取る』など、サッカーの駆け引きを楽しみながら、足下の卓越したスキルや豊かな創造性に磨きをかけた。
青山は高校1年のときに世代別の日本代表にも選出され、AFC U-16選手権にも帯同した。
順風満帆なキャリアを歩んできたかに思われた青山だったが、プロの壁は高く、トップチームへ昇格はできなかった。
――どのような経緯で中央大に入学しましたか。
「『U-18からの昇格見送り』という新聞記事をTwitter(現X)で見て、トップチームに上がれないことを知りました。
そのとき僕たちは誰も(トップチームに上がれないことを)聞かされておらず、GMの久米さん(久米一正)から『すぐにクラブハウスに来てくれ』と電話がかかってきました。
そこから一緒に進路を考えようとなったときに、中央大出身の久米さんの勧めもあり、中央大に進学することに決めました」
――その後、中央大を途中で辞めてびわこ成蹊スポーツ大に再入学した理由を教えてください。
「簡単に言うと、人間関係がうまくいかなくなって中央大を辞めました。そこで気持ちが切れてしまって、本当にサッカーも辞めようとしていました。
でも、周りの支えがあったり、母から『サッカーを続けてほしい、大学を卒業してほしい』と言われて。
兄がびわこ成蹊スポーツ大の出身で、そのつながりで母がコーチとやりとりをしてくれました。
(中央大を)1月に辞めてからすぐに動き出したこともあって、奇跡的に枠があり4月に入学できました。
僕は本当に周りに支えられているなと思いましたね」
青山としては不本意な理由で中央大を退学したが、再入学したびわこ成蹊スポーツ大では入学後すぐにレギュラーに抜擢された。
2年のときには背番号10をつけて、同校サッカー部史上初の関西学生リーグ優勝に貢献。さらに青山が最高学年となった年に出場した関西選手権では、準決勝(vs大阪体育大)と決勝(vs関西大)で得点を挙げ、滋賀県の新興校を初優勝に導いた。
――びわこ成蹊スポーツ大では、2年のときから背番号10番をつけて活躍されました。4年のときには関西選手権で優勝も経験していますが、同大での思い出を聞かせてください。
「入学当初は、学年は同じ1年でも周りは1つ歳下の選手なので、すごくやりづらかったです。
当時の僕は、自己評価を見誤っていて、自らやりづらい環境にしていました。
そんなとき、4年生の先輩から『お前は今後、同学年の人たちと4年間過ごすことになるし、4年になったときは1つ上の代はいなくなる。だからそこの意識は変えたほうがいいよ』と言われて『確かにそうだな』と納得しました。その助言が僕にとって大きかったですね。
そこで自分のマインドを変えて上手くコミュニケーションを取ろうという姿勢に変わりました。
1年目に先輩から受けた助言がなければ、4年のときの(関西選手権)優勝はなかっただろうし、僕の4年間はなかったと思います」