マラドーナの意地

1983年6月4日 1982-83コパ・デル・レイ決勝
バルセロナ 2-1 レアル・マドリー

1983年6月コパ・デル・レイ決勝は、「クラシコ」となった。当時世界最高の移籍金700万ドルでバルセロナへ移籍していたマラドーナは自身のゴールこそなかったものの多くのチャンスをお膳立てしレアル・マドリーを下す原動力になった。バルセロナは通算20度目のコパ・デル・レイ優勝を達成する。

なお、翌1984年の決勝に再び駒を進めたバルセロナだが、ビルバオに0-1で敗戦している。この試合後、激しいマークに激怒したマラドーナが乱闘騒ぎを起こし、3か月間の出場停止~ナポリへの放出と向かってしまう。

独裁者の影

1943年6月13日 1942-43トロフェオ・デル・ヘネラリッシモ準決勝第2戦
レアル・マドリー 11-1 バルセロナ

フランコ体制下で、コパ・デル・レイの名前もトロフェオ・デル・ヘネラリッシモ(総統杯)に改名されての試合。準決勝第1戦を3-0で勝利していたバルセロナだが、試合前に警察がロッカールームを訪れるなど“脅迫疑惑”がもちあがり、11-1という記録的大差でレアル・マドリー相手に敗北する。

後のIOC会長フアン・アントニオ・サマランチは「バルセロナの選手達は何かにおびえていたようだった」と記事を執筆したことで新聞社から追放されている。彼はフランコ側の人間だったが、カタルーニャ愛は本物だった。後にバルセロナ五輪を成功させたことで、オリンピックの発展、バルセロナの経済発展に寄与しカタルーニャでは英雄となった。

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