AFC公式マガジン10月号は、 1998年、2010年とワールドカップ2大会で指揮を執った元日本代表監督岡田武史氏のインタビューを掲載した。

突然の就任から2度の大舞台を経験し、決勝トーナメント進出も成し遂げることに成功した岡田氏。その裏にあったエピソードや、2010年大会直前に戦術を変えた決断についても語っている。


岡田武史 元日本代表監督

「最初に監督の仕事を受けた時、僕は41歳だった。メディアやサポーターからのプレッシャーは大きかったな。僕は日本人だったし、若すぎたし、経験もなかった。それは確かに真実だった。しかし、僕はそこに全力を尽くさなければならなかった。

(1998年のワールドカップ予選について)

ジョホールバルが最後の試合にはならないと分かっていた。もし勝てなくても、オーストラリアとの試合が待っていると。しかし、あの段階でオーストラリアに勝てるほど強いとも思っていなかった。

だから僕にとっては、あれがワールドカップへの権利を得る最後のチャンスだった。イランで最も重要な選手といえるカリム・バゲリが出場停止になっていて、僕には運があった。

チャンスがあった。そして、もし敗れれば日本に帰ることは出来ないと。

僕の家は常に警察が守っていた。そして、彼らは子供たちが危険なので自動車で学校の送り迎えをするよう妻に伝えていた。

代表監督というのはクレイジーな仕事だ。特に同じ国の人物である場合は、家族がいるからね。息子はよく泣いていた。小学校だけでなくいろいろな場所でね。誰もが僕の仕事について彼に叫んでいたから。とても難しい仕事だった。

(1998年ワールドカップ本大会について)

ジャマイカには勝てる可能性があった。あれは僕のミスだ。チームはこれまでと同じレベルにはなかった。2試合で敗れ、僕のメンタリティもモチベーションも落ちていた。それは良くなかったね。

クロアチアに対しては、彼らに2つしかチャンスを与えなかった。3試合を通して言えば、それほど悪くはなかったと記憶している。しかし、結果は悪かった。

僕が監督だった時、メディアはワールドカップ出場という資格を得たことが重要だと言った。多くの日本人にとって、スタイルはとても重要なものだ。しかし、勝利こそが最も重要なものだ。