(日本代表監督に再起用されたことについて)

協会が僕に電話をかけてきて、東京のホテルでスタッフと会った。僕は玉川に住んでいて、家を出る時に妻に言った。『僕は断るつもりだ。問題ない』と。

しかし、我々が話したとき、このオファーを受ける日本人の監督はいないだろうと感じた。大きな崖を見た。そして、それに登りたくなった。登らなければならないと。

頭では断らなければならないと分かっていた。しかし、心はそれを受け入れなければならないと分かっていた。そして、『はい』と言った。帰宅したら、妻にはこう言われた。『あなたはいつもそうだ』とね。

そして、数日間自分を分析した。もし僕があれを拒否していれば、海外の監督がやってきて、『時間がなかった』と言うだろう。それは難しい仕事で、断る理由はある。しかし、僕はそれが好きじゃない。

僕は日本人だ。そしてそれに誇りを持っている。通常日本人は外国人にコンプレックスを持っていて、もし彼らが負けてもOK。僕はそれが好きじゃない。日本人が外国人と同じようにやれるところを見せたかった。

(2010年ワールドカップについて)

正直に言えば、大会の6か月前の試合で、僕はこのスタイルとメンバーではワールドカップは厳しいと感じていた。しかしそのタイミングが難しかった。

もし僕らがあれ以前に変えていれば、選手は『それほど状況は悪くない』と苦情を言い合っていただろう。何故変えるのか? と。

僕は適切なタイミングを待った。そして韓国との試合の後に決断した。ディフェンスとゴールキーパーを変えること、そして中村俊輔をサブに置くことを。

それは僕にとって良いタイミングだった。もしあそこでドロー、あるいは勝利していたら、変えることは出来なかった。そして、ワールドカップは厳しいものになっていただろう。

最初の試合の前には、誰もが『チームは良くない』と言っていた。しかし、日本の人々は、このような状況の時でも良い関係を持っている。僕らはそのような状況で戦いに臨み、選手たちはお互いに正直に話し合っていた。

通常、日本人の選手はそういうことをしない。しかし、彼らはそうした。関係も強かった。そして最初の試合に勝ち、前に進んでいった。僕は驚いた。『変わったな』と。

2010年のワールドカップの前は、フランス大会と似ていた。多くの批判があった。オシムはスーパースターであり、彼らは僕と比較した。『オシムがここにいればいいのに』と言った。

だけど、僕はそれを聞かなかった。監督でいた時は、テレビを見なかった。雑誌も、新聞も読まなかった。外国人の監督と同じようになろうと、ラジオも聴かなかった。それが代表チームの監督であるための唯一の方法だと信じてね。

カメルーン戦ですべてが変わった。しかし、僕は変わらなかった。試合の前も、その後も。オランダ戦で勝ちたかった。だけどそれは難しかった。スコアは0-1だったが、チームの間には大きな違いがあると感じた。

そして次の試合、デンマーク戦では勝つ可能性があると思っていた。スコアは1-0だろうと推測していた。だけど、信じられなかったね。とても良いパフォーマンスだった。最初の10分でヨン=ダール・トマソンが2つの大きなチャンスを逃してくれた。もしそれが一つでも決まっていれば、難しくなっただろう。だけど、僕らには運があったね。

ワールドカップの後、僕らは日本に戻った。そこに多くの人々がいたことに驚いた。彼らは僕らとともに喜んだ。

パラグアイには勝つチャンスがあったが、敗れた。僕らは失望していた。しかし、彼らは祝ってくれた。日本を発ったときは50人くらいしかいなかったのに、帰ってきたらとても多くの人がいた。信じられないことだね。