「その時、炭の樽を運んでいる人がいると聞いた。でも、笑えることに、俺の家には炭を仕入れるための金さえなかった。
親父はその人を説得して、最初の出荷分を送ってもらい、それを売ったうえでその代金を支払わなければいけなかった。
だから、俺や妹がお菓子なんかをねだると、父から『家2軒分とトラック1台分の石炭代を払っているんだぞ!』ってどやされたよ。
ある日、父と一緒に石炭の袋詰めをしている時に、雨が降ってとても寒かったのを覚えている。トタン屋根の下にいたけれど、そこにいるのはとてもつらかった。
自分はその後、暖かい学校に行けた。でも、父はその場で休むことなく、一日中袋詰めをしていた。
なぜなら、その日に石炭を売れなければ、家族は何も食べられないからね。
自分はこう思ったし、強く信じていた。『いつか全てが良くなる時がくる』と。
だから、全てはサッカーのおかげなんだ」
また、サッカーを始めた頃はスパイクを買い直すお金がなかったので、壊れた部分を母親が接着剤でくっつけていたとか。
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ロサリオ・セントラルに入団した際も、「遠い、9キロもある!車もないんだぞ、どうやって連れていく」と躊躇する父を「ダメよ!心配いらない、私が連れていく」と母親が説得。
母は、錆びた自転車にディマリアと妹の2人、スパイクと食べ物を入れたバッグを乗せて、毎日練習の送り迎えをしてくれたそう。